息子が生まれたことと戦争について

息子が生まれたのでそのときのことを書き留めておきます。僕はしがない銀行員のため立派なことが書けないのが悔やまれるが、とりいそぎの言明。

 

出産

出産の当日は「今日はなにかある予感!」というのはまったくなく、妻の定期検診があるなーというのも正直にいうと仕事が忙しすぎて忘れてしまっており、昼食をとるために休憩ラウンジに移動してiPhoneを開いたときに妻からの不在着信が入っているのを見て「あれ?」と思い、すぐに折り返すと「定期検診で来院した際に子供の心音が弱っており、なんだかあまり具合がよくない、このまま出産する」ということを伝えられ、「あれあれ?」とまた困惑し、とりあえずいつまでに病院に行けるかを報告せよとのことなので、すぐ職場に戻り関係者に話して回り、そのまま日本橋にある会社を出て八重洲まで向かい、バスに乗って茨城にある病院まで行きました。道中、妻の母から連絡があり、手術室に向かったということだったので、間に合わなかったか、と思った。

間に合わなかったことや、通常分娩ではなかったことについては、「そうか普通じゃないんだな」と思ったけど、特に強い負の感情を抱くことなく、それより常に最悪の事態を想定してしまうので、とにかく無事でいてほしいと願った。

僕は普通の真人間ではないので、最悪、息子はさておき妻だけでも無事に生きてほしい、そうでなきゃ僕が死ぬ、と思っていた。子供のいない人生は考えることはできるけど妻のいない人生は考えられなかったので、最悪の閾値がここにあるなと思った。そういえば、フランスの現代哲学者ジル・ドゥルーズはフェリックス・ガタリとの共著『ミル・プラトー』で「最終の一歩手前」をさす仏単語「ペニュルティエーム」を文脈から取り出して分析していたけど、それに近い感じだ。

とりあえず病院に到着すると妻の母がおり、状況を説明してもらった(妻の母において状況の「説明」は必ず「その説明をするときの感情」とセットになっているので、その説明から医師の発言を抽出するのに苦労した)。ただし、状況を説明してもらってもなすすべがないということは明らかだったので、そのまま待っていた。

時間にして30分がかなり長く感じたけど、外は5月の晴天最高青空で、海沿いの街なので少し湿り気のある風が吹いており、東京より多少気温と湿度が高い気候だったからか、なんだか鎌倉とか湘南みたいだな、と感じたり、それほど明るいとはいえない病院の窓の外から見える景色は、この世の春を謳歌するような太陽光線を乱反射しており、こんな深刻な事態(situation)に対して「とてもいい天気だ」とのんきに考えてしまったり、なんだかとりとめもないいくつもの思考のあいだをただよっていたように思える。

子供が手術室から出てきたときには、「あれ?アナウンスとか、BGMとかないの?」と思った。それは本来もっとも賞賛で迎えられるべき状況だと考えていたからだ。だからアナウンスとBGMに慣れた現代人たる僕は、一瞬遅れて「安心した!」と感じた。「おめでとうございます!」「男の子ですよ」「お父さん」といわれて、また一瞬遅れて「おめでとう、息子よ!」と思った(僕に対して「おめでとうございます」と言われているのかもしれなかったけど、僕は僕がおめでたい人間だとはまったく思わなかったし、思われるいわれもなかった。やはり何かを達成したのは息子と妻だと思った)。

息子は静かだった。ど、どうしたの?と思うくらい静かだった。しかし看護師さんがニコニコしているので大丈夫だと思った。さっそく抱っこさせてもらったとき、最初に感じたのは息子をくるむタオル越しに感じる背骨だった。「あ、背骨ある」と思った。脊椎動物であることは疑いようのない事実だった。しばらくして息子の顔がくもったので、「あ、動いた」と思ったらオギャーと泣き出した。泣き出したときにようやくほっとした。それまですべてがスローモーションのようだったのだが、ようやく時間が正常に流れたようだった。そのまま息子はニコニコした看護師さんに抱かれながら奥の部屋へ消えていったのでなんだか急に不安になった(それは当然杞憂だったのだが)。

妻はまだ手術が終わっていなかったので、今度を妻を待つ番だった。それは息子を待つより長く感じた。そのときには息子の余韻が残っていたので、周りの景色とかはあまり記憶に残っておらず、僕の精神は単純に純粋に不安の渦中にあった。だから妻が移動型ベッドに乗せられて出てきたときには余計ほっとした。とりあえず無事そうだ。それから、顔を見て、話をして、隣のお医者さんと話をして、やっぱり大丈夫だと安心した。妻は下半身麻酔を受けていたのでお腹から下の感覚がなくなっており、けろっとした顔(妻はカエルではないものの小動物に似ている)で「お風呂に入っているみたい」といっていた。妻はけっこうヘビーにお風呂が嫌いなので、こういこうときはどんな喩えでもいいんだな、と思った。

二つの不安が解消されると、少しずつ、現状が整理できるようになってきた。定期検査時に子供の心音不調が発覚し、緊急帝王切開手術を受けることになった。あとから聞くと、臍帯(へその緒)が通常より短く、臍帯からの栄養補給が困難な状態になっていたのだという。気づいてよかった。生後2日目までにおいては、母子ともに健康、これが僕のもっとも望んでいたものだった。その日、知らせを聞いてから出産に立会い、病院を出て妻の実家に泊まらせてもらって寝るまでのあいだずっと考えて感謝していた、「無事より大切なものなんて、なにひとつ存在しない」。

こうして考えると人間は知らず知らずのあいだに欲が出ていて、ずっと逆子だったので帝王切開かと思っていたら治ったので、これで通常分娩できるね、とか、予定日まで順調に体重が増加しているね、とか。それらはすべて瑣末、取るに足らないことだと知った。「無事」からすると、それはとてもぜいたくな話に聞こえる。僕は結局いちばん必要な「無事」を得ることができたので、それ以上何も望む理由はなかった。

ただ妻の母が「普通に産むのと比べて」の「普通」も、なんとなく釈然としない自分がいる。子宮から産道を経由する分娩と切開手術による分娩、患者の体調に応じて分けられているという認識だが、「お腹をいためて」や「苦しい先に」とか、根性論の押し付けは困る。先進諸国の帝王切開による出産は20%近いとのことで、5人に1人の確率で子供は「帝王切開経験者」だ。出産行為は医療行為なのだから、そういうことだろう。

20%というのはたいした数字ではない。というのも、僕自身が先天的に左利き(大体10%未満)、小学生のときにADHDじゃないかと診断され、後天的には国立文系大学院を修了(これは5%未満だろうか)、ヘルメットとゲバ棒新左翼の悪い流れを汲んだ極左武闘勢力に属していたのに銀行員と、かなり特異だからだ。親の仕事の関係で2歳で渡米、4歳で帰国。「帰国子女」と呼ばれてもなんのことかもわからない。

マイノリティであることは必ず強みになる。高円寺はマイノリティの街なので、ゲイのカップルがノンケの俺らとバーで面白い話をする。初対面の仲良くなったまじめそうなフランス人がマリファナを渇望してくる(彼に南口のとある店を紹介したら喜んで飛んでいった、それ以来連絡はない)。お祭りになれば終わってもどこからかバンドが路上で爆音ライブを初めて客が殺到、解散するよう迫った警察官をモッシュで押し出してみんな(知らないひとたち)で笑ってたら機動隊くらいたくさん来たので笑って解散したり、楽しく飲んでる中東系のアジア人が捕まりそうになっていたので「人種差別だ」とみんな(知らない人たち)で引っ張り出して集団で抗議し、そのすきにアジア人逃亡する。マイノリティは総じて寛容だ。人は人に寛容になれるだろうか。それは魂を賭した博打であり、人類の悲願でもある。われわれが樹木でなく、ロボットでもない意味はどこにあるのか。われわれは疎外のなかにあり(このフレーズ自体がこの概念の言語的困難を象徴している)、とある「事態」は概念としての出来事に各々の具象が接続されることでしか発生しえない。

 

まったく話は関係ないが、息子の顔をまじまじと見ていて、「戦争」という言葉が思い浮かんだ。僕の祖父母は戦争を経験している。われわれは、戦争に関する「発言」を聞いた最後の世代だ、ということをあらためて思い返した。歴史は解釈され分析され分断される。アウシュビッツの証言や、南京大虐殺の証言ですら、信憑性やら相反する証言から分析の対象になる。いずれ戦争の正当性や正否ですら槍玉に挙げられるだろう。

 

われわれにとって真実とはなにか?なぜだか、子供が「真理」であるとは思えない。彼らは、僕らでさえ、いままさに進行している、そして幾度となく繰り返されてきた歴史の中継点に立ち、獲得した五感とあまりに小さな思考からツリー状の真実を紡ぎ出し、蓋然性の海の中に集団催眠(相互承認)のボンベで生きながらえている。QUEENフレディ・マーキュリーBohemian Rhapsodyでnothing really mattersといっている。「たいしたことない」「だいじなことなどなにもない」と訳されるとのこと。「ほんとうのことなどなにもない」とも読める。僕は「現実的なる具体的事柄は一切存在しない」と読んでいた。reallyが副詞なのはあえて置いといて、realiserは現実になる、つまり実現する、という意味で、matterはダークマターみたいに抽象的事物を指す言葉(たとえば派生したmaterlialは物質を意味する)なので、「具体化される一切の事物は存在しない」と、カントの物自体のようなことを言っているように聞こえる。確定した事実(意識高い人たちがいうfact)など何もない(仕事でよく使うけど)。だから、目で見た、耳で聞いたことは蓋然性の海を漂う。みんなで難破船から放り出されて、海の上でイルカみたいにクラスターを作って暮らしているのだ。

 

戦争とはなにか。その悲劇性と、冗談みたいなソファにもたれてカタカタとネットで気の合う仲間と中韓を日本国内から追い出せという言葉を紡ぎ出す魂の拠り所とかなにか。息も絶え絶えな旅人に差し出す水の味は、50m歩くのがめんどくさくて寄ったコンビニで買ったカップラーメンの底に沈殿する濃いスープと、どのような本質的差異があるのか。

 

またぜんぜん関係ないけど、僕は大学院を修了するための論文で「生命なんてもともと存在しないしこれからも存在しないけど、生きて動いているモノはあって、それらは明確に区別されるべきものだ」と書いた。

 

正義は議論の的になる。力・権力(puissaceやpouvoir)は明確だ。真理は議論のタネにすらならない。だがわれわれの行動指針は前者のもっとも危うい概念を中心に決定される。それはたぶん交換可能な価値だからだし、スクラップ・アンド・ビルドを得意とする生物にフィットするからだと思う。

 

いずれにせよ息子が無事に生まれたのはよかった。いつか息子がニーチェ的円環のなかで一つの仮面を、ディオニュソス的勇気をもって選び取り、「これが人生なのだ」(c'est la vie!)と言明(statement)することを、本稿は切に期待するものである。