言葉について考える(いい歳なのでもうあまり難しい言葉は使わないようにする)

言葉とは。

 

最近日本語についてとりとめもなく考えたことがある。日本語の独自性について、または他の諸言語との差異について。論理学の言葉では前者は内包、後者は外延という。ある言葉について考えるとき、俺は必ずこの二つの側面から考えるようにしている。たとえば、人間とはヒト科の動物であり、かつ言語をもつ唯一の生物である。ただし内包と外延は万能じゃない。ヒト科の動物はたしかに人間だけかもしれないが、ヒト科の動物という言葉自体が人間が作ったものなので人間が人間を規定していることになる。これのなにがまずいかというと、人間が人間を他から分けるものが人間の作った言葉である場合、人間が人間の作った言葉以外で規定される可能性を作った当人である人間しか排除できず、人間は人間=自分を規定する言葉を人間=自分からしか作れない、すなわち人間が人間であるという根拠は人間にしかなく、サルが自分を人間と考え始めたときに否定しようものなら「じゃあなにが人間なのさ」と返され、「そりゃ人間だから人間さ」と返答するしかなくなり、「そういうのを同語反復っていうんだよ」とサルにバカにされてしまう、恥ずかしい思いをするのだ。

 

完全に脱線してしまった。

 

必要なことを短くまとめると、概念は内包と概念に区分され、ありえないけど内包と外延が完全に一致したところに完全な定義があり、けどそれは概念の非対称性と可変性によって常に横滑りするためありえず、常に概念は流動的であり、定義は常に失敗する。そのなかで、失敗してもいいからこれってなんだろうに応えてみようじゃないか、というのが言葉について考えることのすべてだ、俺にとっては。

 

それで、日本語についてだけど、よく日本語は美しいとか、独自の進化を遂げているとか、日本語しか話せず日本語しか知らない人が言ってるのがずっと嫌いだった。もう、そういうこという連中は、だいたい最後は日本最高とか言い出すから、単細胞すぎるだろ、つまらなすぎるだろと、辟易する。だからそういう連中の言葉が聞きたくなくて日本語について考えるのもイヤになっていた。

 

しかし、あらためて考えると、不思議な言語だな、日本語、と思うようになった。

 

主語がない、または主語がなくても通じるというのが不思議。文脈を大事にする。だいたい、言葉が通じるということに疑問をもったことはないだろうか。そらがあおいを、一文字ずつ一時間ごとにそれぞれ知らない人から突然告げられて(こわい状況だ)、はたして晴れた日の他に物体がない場所で顔を上に向けたときに視界に入る光の色のことだと理解できるだろうか。いやできない。だからすべての言語は文脈がないと完成しない。文脈という言葉はかなり高度に設計された概念なのですこし崩すと、情報を流すときに場所を固定して一定の時間を拘束する、その方法のことをさす。そうして凝縮された情報を、情報の受容体が自身の内部プログラムで意味に変換して、今度は同じ方法で逆方向に発信する、このやりとりが言葉といわれる。だから主語がないというのは、より時間軸を長くとって情報を交換している、つまり裏を返すと、受容体において情報を貯めておく箱がより大きくとられている状態をさす。

 

だからなんだというはなしだが。

 

しかし最近は年を取って丸くなってきたもので、日本語がだんだん嫌いじゃなくなってきた。さらさら、はらはら、いいじゃない。主語がない、いいじゃない。なんだかこの大陸から隔絶された島国でみんな不安だからこそ熟成されてきた言語って感じがする。そういう、なんか弱々しい感じが最近好きだ。

 

だからなんだというはなしだが。

 

しかし難しい言葉を使わないようにすると、文章が異常に長くなる。みんなどうしているのだろう。魔法かな。